「真昼の月」


 

神様、お願いです。
欲しいものがあるんです。

 

 

 

 高橋涼介は完璧な人間だ。
 彼を知っている人間ならば誰でもそう言うだろう。
 小さい頃から神童と呼ばれていた頭脳は群馬大学の医学部でも健在だ。
 20歳を過ぎたらただの人という言葉は彼には当てはまらなかった。
 彼は見た目も秀でていた。
 モデルか俳優かという容姿は人を惹きつける。
 背が高く、鍛えられた体はしなやかですらある。
 誰もが涼介を特別なものとして捕らえていたが本人はそれに奢ることはなかった。
「兄貴のすごいところはそういうところだよな」
 普通これだけ才能を持っている人間ならばおごり高ぶることであろう。
 自分は特別な人間なのだと錯覚して自滅していく者も少なくない。
 涼介はその事をよく分かっていた。
 だから周囲が褒めると苦笑を浮かべる。
「俺は要領がいいだけだよ」
 こつを掴んでいるから小器用に立ち回れるのだと涼介は言う。
 そんな彼だからこそ、周囲は好感を持った。
 才能がある。
 だがそれに負けないだけの努力をしている。
 見えるところも見えないところも、
 手を抜かず精進しているからこそ今の涼介があるのだ。
 誰もが彼を好きになった。
 涼介の周りにはいつも人で溢れていた。
 彼の傍にいるのは一種のステータスともなっている。
 彼の周囲にはいつも取り巻きがいた。
 誰もが涼介に構ってもらいたくて気を引こうとしていた。
 

 高橋涼介の特別になりたかった。

 だが涼介は公平な人間であったから、誰かを益贔屓したりすることは無かった。
 親友と呼べる友達はいる。
 慕ってくれる弟もいる。
 今の段階で涼介にはそれで十分だった。
 大学での取り巻きも、レッドサンズのメンバーも皆気のいい仲間達だ。
 何時か恋愛をして恋人という存在も出来るだろうが今の涼介には必要無い。
 車と、大学と、将来
 恋愛にかまけている暇は無かった筈だった。

 それは峠でいえばごく普通の出会いだった。
 バトルを仕掛け、相手はOKする。
 秋名の峠はそこで一番早い走り屋を出してくる。
 当然の話だ。
 地元の維持をかけて秋名最速のドライバーを用意するだろう。
 そこまではどこにでもある普通のバトルの筈であった。
 普通でなかったのは秋名最速のドライバーがまだ18歳、若葉マークの素人だったこと。
 素人のくせに馬鹿みたいに速くて、弟の啓介を千切り、妙義ナイトキッズの中里も破り、碓氷のシルエイティも下した。
 見た目は普通の子供だ。
 どちらかと言えば覇気の無い、大人しいタイプだ。
 走り屋は大抵アクティブで好戦的な性格が多い。
 だけれども彼はそうでは無かった。
 飄々としているというよりも単にぼーっとしているだけだ、と弟は言う。
 確かに彼は峠に来ても、ぼんやりと周りを眺めたりバトルを見たりするだけで自分から進んでバトルしたりすることは無い。
 薄墨色の瞳で辺りをじっと観察している姿は小動物のようだ。
 可愛らしい
 そう思うことは失礼だろうか。
 18歳の男子高校生にしては華奢な彼はその事をコンプレックスに感じているだろう。
 少しぶっきらぼうなしゃべり方も大人から見れば微笑ましいと言うしかない。
 そうこうしているうちに 藤原拓海という少年は、峠の中で浮きまくっていたにも関わらずすんなりと馴染んでしまった。
 最初はけんか腰だった弟ともすっかり仲良くなっている。
 何人か走り屋で知り合いも出来たらしい。
 走り屋ではないと言っていたが、最近では楽しそうにしている。
 それが涼介には嬉しかった。
 この頃にはもう自分の感情を理解していたから、
拓海が峠に来るだけで胸が高鳴った。
 姿を見れるだけで満足していた。
 拓海は涼介を見ると少し赤くなりながらお辞儀をしてくる。
 軽い会釈程度のそれでも涼介には嬉しかった。
 仲良くしている啓介の兄だからというのもあるだろうが、拓海は礼儀正しく挨拶してくる。
「あいつさ、兄貴に憧れているんだよ」
 何かの時、確か啓介がそう言っていた。
「俺の事を?」
「ああ、なんでもあいつの友達や先輩がみんな兄貴のファンらしくってさ、昔のビデオとか見させられたらしいぜ」
 それを見て以来、拓海は涼介に憧れているそうだ。
「兄貴はナチュラルにたらしだなぁ」
「なにがだ?」
 弟は呆れた顔をした。


 
 彼のどこに魅かれたのか。
 そう自問自答するけれど答えは見つからない。
 彼の走りや性格、顔、どれも好きなのだ。
 好きな部分は幾らでもある。
 嫌いな部分は見つけられない。
 見つけられる程、涼介は彼の事を知らなかった。
 藤原拓海の近くにはいなかった。
 だからだろうか。
 最近、彼を見ると幸せなのに胸が痛いのは。

「拓海はああ見えても喧嘩強いらしいぜ、前に学校の先輩殴り倒したこともあるくらいだからな」
 時々、弟が彼を話題にする。
 俺はそれに相槌を打ちながら必死に耳をそばだてる。
 弟の会話に出てくる彼の情報を頭にインプットする。
 前は会話が楽しかった。
 弟から語られる彼の情報を知るのが嬉しかった。
 だが最近それが苦しい。
 楽しそうに弟が話すたびにある感情がわきあがってくるのだ。
 嫉妬という言葉の意味を始めて知った。
 こういう話をするという事は弟になついている証拠だ。
 それをずるいとすら思ってしまう。
 羨ましいと思ってしまうのを止められない。
 以前は見ているだけで十分だった。
 だけれども最近、眠れない日が続く。
 彼の近くにいきたいと願う自分がいる。
 彼の周りにいる人間を羨ましいと妬む自分がいる。
 そう自覚してから随分とたった頃、俺は藤原拓海をプロジェクトDに誘った。
 チームの仲間として誘ったのは彼の才能を伸ばしてみたいと思ったからだ。
 彼の成長を手助けしたいと願ったからだ。
 そして、彼の傍にいたかったから。


 それから数日後、彼は返事をしてくれた。
 プロジェクトDに入りたいと言ってくれた彼。
 俺はそれに満足した。
 その時はそれで十分だったのだ。
 だけれども人間の欲望には際限が無い。
 すぐにもっとと望む自分に気がつくだろう。
 欲深な自分、己の醜い姿をまざまざと見せ付けられることになるとはその時、俺は気がつくことが出来なかった。

俺は信じてもいない神に祈る。

神様、お願いです。
どうしても欲しいものがあるんです
彼を俺に下さい。

 

 

5月大阪の無料配布でした。