宇宙暦798年 帝国暦489年4月


同盟軍防御の要であるイゼルローン要塞の目の前に帝国のガイエスブルグ要塞が現れた時、イゼルローン総司令艦ヤンウェンリーはハイネセンの統合作戦本部に査問会で呼び出されていた。
 この査問会は急激に出世したヤンウェンリーに対する牽制と警戒、
 はっきり言えば嫉妬と中傷による嫌がらせであった。
 そのツケはあまりにも大きすぎる。
 同盟防御の要であるイゼルローンの総司令官不在は戦局を大きく左右する。
 査問会は即座に中止されヤンウェンリーはイゼルローンへの帰還、帝国軍の撃退を命令された。
 今ではイゼルローンに戻ることすら難しいというのに。
 命令する方は簡単だ。
 しかも政府は無理難題を命じてきた。
「第一艦隊の出撃は許されない」
 イゼルローンに戻るヤンにろくな護衛すらつけようとしない。
「第一艦隊を動かしたら首都の守りはどうなる。首都は空には出来ない。頼みの綱だったアルテミスの首飾りは無いのだから」
 首飾りを壊したのはヤンだから責任を取れ。
 と言いたいのだ。
 政府の要求は誇大妄想の域に達していた。
 辺境の警備艦を道中で動員しながら寄せ集めたった5000艦隊で巨大なガイエスブルグ要塞控えるイゼルローンに戻り敵を撃破せよ。
 子供が聞いても無理な注文だと分かる世迷言をヤンウェンリーに押し付ける。
 この案ではイゼルローンに辿り着く前に帝国軍の餌食になるのが関の山だというのに。
 自分達のいるハイネセンの守りは厳重にしているくせに辺境惑星の警備などどうでもいいと考えている。
 安全な場所から荒唐無稽な命令をごり押しする政府
 この時ヤンが素直に従ったのは同盟のためでは無い。
 今戦いながらヤンの帰りを待っているイゼルローンの仲間のためだ。
 道すがら拾っていく編成部隊は4つ
 2人の司令官は知らないがモートン准将は知っていた。
 第9艦隊の副官で中々の人物だ。
 後1人。
 アラルコン少将は以前民間人と捕虜を虐殺した容疑で軍法会議にかけられたが証拠不十分で釈放されそのまま辺境へ左遷させられた男だ。
 ヤンが一番嫌うタイプの軍人だが背に腹は変えられない。
 今一番優先すべきはイゼルローン帰還であり個人の人格は考慮している場合では無い。
 嫌悪感を覚えながらもヤンはアラルコン少将については目を瞑ることとした。
 そしてそれは大きな過ちとなり身に降り注いでくる事をこの時ヤンはまだ知らなかった。

 ガイエスブルグ要塞を指揮していたのはケンプ大将を司令官としてミュラー大将を副司令官に据えた混合艦隊であった。
 2人は同格の大将だが年齢はケンプの方が遙かに上だ。
 ミュラーは席を譲るという形で副司令官に納まったが内心不満であった。
 ケンプは堅実な良将だが頭が固い。
 小競り合いで捕らえた同盟捕虜兵から有力な情報を得たというのに生かそうとしない。
 ヤンウェンリーはイゼルローンにいない。
 魔術師不在、もしこれが本当なら願っても無いチャンスだ。
だがケンプはこれもヤンのトリックだと言い信じない。
確かにヤンウェンリーはこれまで何度も帝国軍を奇策にかけてきた。
 イゼルローンを落とした時、誰もが息を飲んだものだ。
 まさか無傷、無血でイゼルローンを攻略できるとは誰も思っていなかったからだ。
 そしてその方法の大胆さに仰天した。
 まるでイカサマ紛いの作戦をまんまと成功させたのだ。
 今回のヤン不在も情報操作だと危惧するのは当然だろう。
 しかしミュラーは納得出来なかった。
 もし情報操作だとしても同盟に何の益も無いからだ。
 前線の総司令官がいないなど全うな軍隊ならありえない。
 誰も信じない嘘をわざわざ流してどうする?
 もしかして・・・ミュラーは考えずにいられない。
 本当にヤンウェンリーはいないのではないか?
それを誤魔化すために情報操作をしているのでは無いか。
戦闘が続くにつれ捕虜も増える。
捕虜は一人一人違った事を言う。
「ヤン司令官はイゼルローンにいない」
「ヤン司令官はいる」
「いると言えと命令された」
「いないと言えと頼まれた」
 どれが真実なのか。
 瀕死の重傷者ですら意見が分かれている。
さて、どうしたものか。
気になるのはヤンウェンリーが指揮しているにしては交戦が後手後手に回りすぎているという事だ。
 これもヤンウェンリーの作戦なのだろうか。
 ミュラーが悩む内にイゼルローン攻略は佳境に入った。
 ゲストアドミラルのメルカッツ提督が熟練の技で艦隊を動かし帝国軍を翻弄する。
 ローゼンリッターもゲリラ戦を仕掛けてきた。
 迎え撃つ帝国も負けていない。
二つの巨大惑星間で起こる引力を利用しイゼルローンに多大な被害を与えた。
 この時、帝国軍司令官のケンプの心境は焦っていた。
 戦闘が長引けばロイエンタールやミッターマイヤー、双璧が参戦してくる。
 それだけは避けたかった。
 ここまで来て功績を横取りされるなどまっぴらだ。
 焦りがミュラーとの連携に齟齬を来たす。
 独断で兵を動かしミュラー艦隊は現れるであろうヤンの艦隊を待ち伏せした。
 ケンプから即座に艦隊を戻せと命令が来たが無視する。
 ミュラーは覚悟を決めていた。
 命令に従わず軍法会議どころか捕らえられるかもしれない。
 だがこれに賭ける。
「捕虜が死ぬ間際に告白しました。ヤンウェンリーは要塞にいないと、奴が戻ってくるところを押さえればイゼルローンどころか同盟に大きな打撃を与えることが出来ます」
「総司令官が前線を離れるなどありえない。情報操作に踊らされるな」
「情報操作と見せかけた真実であったとしたら?千載一遇のチャンスを見逃すのですか」
「兵力の分散がヤンウェンリーの目的だ、わからんのか」
「ヤンウェンリーはいない。それを誤魔化すために情報霍乱しているのです」
「ミュラー、貴様は俺の部下だ、俺はお前の上司であり司令官だ」
「階級は同格です。ヤンウェンリーを捕らえるというまたとないチャンスを見逃す訳にはいきません、例え不服従で投獄されたとしても」
「ミュラー、貴様」
「もしヤンウェンリーを捕らえることが出来ればケンプ司令官こそが処罰の対象となるでしょう。無能とレッテルを貼られ閑職に回されます」
「口を慎めっミュラー」
「司令官と同じく私も焦っております。このままではロイエンタールミッターマイヤーの双璧のみが優遇され我等の価値は低くなるばかり。それはこれから訪れるローエングラム王朝にとって危険です」
「ミュラーっ口が過ぎるぞ」
「双璧と並ぶにはこの機会を持って以外ありえません。これは天が我らに与えた試練でありチャンスなのです」
 ミュラーの真剣な説得はケンプの心を揺り動かす。
 目に見える出世欲だけで無く今後の未来を
 鼻先にぶら下げられたイゼルローン奪回という栄誉のみならずヤンウェンリーを捕獲出来たら。
 もしミュラーの言う通りだとしたらヤンを捕らえればイゼルローンは無傷で手に入れられる。
 御しがたい誘惑であった。
 大きく差が開いたかに見える双璧との距離も縮まる。
 否、凌駕する。
 上級大将どころか元帥杖もこの手で掴む事が出来る。
 この時のケンプは明らかに何時もと違っていた。
 質実剛健、実直な戦法を旨とする彼だがヤンウェンリーを手に入れるという甘い誘惑に逆らえなかった。
 そしてそれは正しかった。
 彼が情勢ではなく勘で兵を動かしたのはこの時一度だけだ。
 その一度、幸運の女神が振り向いた瞬間をケンプとミュラーは見逃さなかった。
 帝国にとっては幸運の女神。
 同盟にとっては不運の悪魔
 ケンプがミュラーに許可を与え更に待ち伏せの艦隊を増強した事によりイゼルローン要塞攻略の勝敗は決したのだ。
 要塞対要塞とは別の次元で。

 ヤンは帝国軍が待ち伏せしている事は予想していた。
 そして対策も練ってあった。
 計画はコンピューターにプログラムされており何時でも発動可能にセットされていた。
 それが起動しなかったのは何故か。
 如何に優れた作戦でも動かすのは人間であるという証明だ。
 ヤンは広い視野と見識を持ち情報を的確に分析する能力に長けていたが一つ見落としていた事があった。
 自分に向けられる嫉妬である。
同盟最年少、29歳という若さで大将の地位まで上り詰めた彼を羨む人間は多い。
 自覚はしていた。
 だが嫉妬が憎悪を育み成長し、ついには病的なまでに軍事主義者であった男の忠誠心までも狂わせるとは想像していなかった。
 所詮ヤンも人の子。
 全ての感情を理解する事は不可能である。
 この戦況下でまさか無謀な背信行為をする人間がいるとは思わなかった。
 サンドル アラルコン少将
 かつてエリートだった男は民間人と捕虜の虐殺容疑で閑職に回されて何年も経つ。
 彼は不満だった。
何の役にも立たない捕虜や平民を殺したからといって何故自分が辺境惑星に飛ばされなければいけないのだ。
 捕虜は強情で自供しなかったから拷問しただけだ。
 民間人は役立たずの癖に要求ばかりを突きつけてきたから国家反逆罪で処分しただけだ。
 こんな事は軍人なら誰でもやっている。
 リークがあって軍事会議にかけられたからといっても証拠不十分で釈放された。
 当たり前だ。
 誰もがやっている事なのだ。
 一々問題にしている方がおかしい。
 なのに自分はスケープゴートにされ左遷の憂き目を見た。
 不公平だ。
能力も実力もある自分を何故同盟軍は優遇しないのか。
怒りは軍とその英雄に向けられる。
ヤンウェンリーなどという青二才がたまたま運良く成功したからといって英雄に祭り上げられる。
あの位チャンスがあれば自分でもやってのけた。
ミラクルヤンと呼ばれいい気になっている若造が自分の上司となった時憤死するかと思った。
 しかも安全な辺境惑星の警備から離れて激戦真っ只中のイゼルローンへ向かえという
 死に駒にされる。
 ヤンウェンリーがイゼルローンに行きたいなら勝手にいけばいい。
 巻き添えはごめんだ。
奴を自分の上司にした同盟軍に、奴を英雄にした国家に、自分を使い捨てようとする民主主義に反吐が出る。
 アラルコンはその時決意した。
 もし自分にチャンスがあれば今度こそうまく使ってみせる。
帝国に接触出来る機会があれば、ヤンウェンリーとかいう作られた英雄を土産にして、奴を人質にして亡命を果たしてみせると。

 機会はアラルコンの望みどおり与えられた。
 寄せ集め5000艦隊のヤンウェンリーを一万の帝国艦隊が待ち構える。
 ヤンは落ち着いていた。
「視点を変えるんだ、我々は帝国軍を挟み撃ちするチャンスに恵まれたんだ」
「なんですと?」
「このままイゼルローンに背を向け我々に攻撃を仕掛けるか、それとも反転してイゼルローンに対峙するか、両方の敵を相手にすれば兵力は半分、単純に計算すれば兵力は五分五分、だがイゼルローンの兵力は増大だ。このまま背を向けていれば背後を突かれる危険は避けられない。出来れば撤退してくれるとありがたいんだけどね」
 ヤンは微笑みながら説明した時、イゼルローンから艦隊が出陣し始めた。
「まだ敵の大将は気がついていない。ガイエスブルグ要塞を尤も効率的に使う方法を」
「どういう事ですか」
 説明を求めるモートンにヤンはチャシャ猫のごとき笑みを浮かべた。
「今、帝国軍の状況を打破する唯一の方法は要塞に要塞をぶつけるのさ。ドカンと一発それで終わり、背後の敵はいなくなり彼らは我々との戦闘に専念出来る。だがそれももう遅い。すでにイゼルローンと連絡が取れる距離に我々は来ているから対処方法を連絡しておこう。ガイエスブルグ要塞が迫ってきたらエンジンを片方破壊すればいいだけの話さ。方向性を失ってあのでかいおもちゃは宇宙の果てにすっ飛んでいくか自爆するよ。暗号通信でそれを伝えておいてくれ」
 まるで世間話をする様な気楽さでヤンがそう言った時であった。
 一つの艦隊が妙な動きを始めたのは。
 ヤンは静止する様に命令してあった。
 モートンも、他の艦隊もしたがっていた。
一番背後に控えていたアラルコンの艦隊が主砲を一斉にヤンの艦に向けてきたのだ。
「何をする?どういうつもりだ?」
 確認のため通信を開くとアラルコンの驕り高ぶった顔が画面いっぱいに現れた。
「小官 サンドルアラルコンは帝国への亡命を希望する。前の艦に搭乗しているのはヤンウェンリーである。彼の生存与奪は我の手に握られている。帝国を脅かすまがい物の英雄を我は忠誠の証として差し出そう」
アラルコンの放送は全方位に発せられていた。
イゼルローンにいる同盟兵、イレギュラーズにも、
対峙しているミュラー、ケンプ艦隊にも
遠く離れたハイネセンにも
銀河帝国で吉報を待ちわびているラインハルトにも
こちらへ向かっている双璧にも
そして銃口を向けられたヤンウェンリーにも
しばらく沈黙の後、ヤンはベレー帽を脱ぐと降参のポーズを示した。
「まいったね、それは思いつきもしなかった」
 アラルコンの艦隊は彼の部下で構成されており腐敗と汚職が蔓延っている。
 上官の命令に異を唱えるものはいない。
 それどころか帝国で優遇される夢を見て祖国を売る事に自責の念など感じない輩ばかりだ。
辺境惑星の軍隊など何か問題を起こして左遷させられた者の寄せ集めだ。
 国家に、自分の待遇に不満を持つ者ばかり
 彼等に忠誠、愛国心を求めること事態間違っている。
「終わったな。とりあえず今私に出来る事は」
 ヤンは同行していたフレデリカに指示を出した。
「帝国軍に繋いでくれ」
「閣下っそれはっ」
「いいんだ、交渉の余地がある内に出来るだけ有利な条件を引き出しておきたい」
 緊張感の無いヤンの顔に決意を読み取るとフレデリカは震える手で通信回路を開いた。
「ヤンウェンリーです。どうやら私の負けですね、いさぎよく降参します。敗残の将としては傲慢なのですが私の部下、背後の艦はイゼルローンへの寄港を許可してもらえないでしょうか」
 通信はケンプが答えた。
「名高いヤンウェンリーに敬意を表したいが捕虜を見逃せとは許可は出来ない」
「帝国も同盟も捕虜が多すぎて困っているでしょう、イゼルローンの人員全員を捕虜にしたら大変ですよ。責任なら私が取りますから部下は見逃してくれませんか」
 あまりにも軽い口調、つい偽物かと疑いたくなるのをケンプは堪える。
「許可はしかねる。確かに長年の戦争により捕虜の問題は増大しているが目の前の敵を見逃す訳にはいかん」
「彼らは命令で私の警護をしてきただけです。尤も造反にあいましたが、まあ大半は罪の無い一般兵です。捕虜にしたとしても有益な情報は得られませんし食い扶持が増えるだけです。彼らには故郷で待っている家族がいます。ここで無益な捕虜として何年も捉えるくらいなら帰してもらえませんか」
 ヤンの提案は尤もであったがケンプには許可できる権限は無い。
 少なくとも彼はそう考えた。
 心情的にはヤンの意見に同意したとしても
「ではこうしましょう、私の身柄と引き換えに部下とイゼルローンには手を出さないと約束していただきたい。その要求が受けいれられなければここで自害します。敗軍の将としては当然でしょう」
 ヤンの言葉は単にケンプの背を押すだけの脅しであったが帝国軍は震え上がる。
 ヤンウェンリーが自害?
そんな事になれば一大事だ。
せっかく与えられた神様からのプレゼントを自害させる訳にはいかない。
何10万の捕虜、艦隊、イゼルローン要塞よりもヤンウェンリー1人の命の方が余程帝国にとって価値がある。
 だがケンプとしても即答しかねる。
 ヤンウェンリーは魅力的だがイゼルローンをこのままにしておくのはまずい。
「しかし我らはイゼルローン攻略のためにここまで来た。ヤンウェンリー1人のために大儀を謝るわけにはいかない」
「私は既にイゼルローンに命令を下しております。もし条件を飲んでいただかなければガイエスブルグ要塞を爆破して見せましょう。もちろん同盟軍1人の負傷者も無く」
「ばかな、そんな事出来る訳無い」
「出来ます。私は既にその命令を発しております」
「ううむっそれは」
 答えを渋るケンプに代わり即座に損得勘定を計算したミュラーが返答した。
「了解した。まずは小型船で卿がこちらへ来てもらおう。大人しく投降すれば他の部下に危害は加えない」
「保障は?」
「帝国軍大将ナイトハルトミュラーの名で誓おう。卿以外には指一本触れないと」
「分かりました。今そちらへ向かいます」
通信が切れると同時にフレデリカの鳴き声が聞こえてきた。
他の部下もすすり泣いている。
「酷い、まさかこんな裏切りがあるなんて」
「アラルコンは屑だ。同盟人としての誇りを捨てた売国奴め」
 ヤンはぐるりと見渡すと口を開いた。
「人それぞれの自由さ。アラルコン少将は同盟に見切りをつけ帝国に新天地を見出したのだろう」
 それだけ言うと指示を出す。
「至急小型船を用意してくれ。後の指揮はモートン准将に任せる。帝国軍に反抗しようなどと馬鹿げた自殺行為はせずイゼルローンへ一刻も早く帰還するんだ。私は捕虜となるがイゼルローンはまだ落ちていない。ガイエスブルグ要塞もだ。今のところイーブンの状態だ。しばらくはこれが続くだろう。イゼルローンがある限り帝国軍は侵略出来ないし同盟もガイエスブルグ要塞がある限り逆侵攻は出来ない。まだ最悪の事態には陥っていない。絶望することは無い」
 そう言いながらヤンは内心呟いた。
(これはこれで一つの手段かもしれない。二つの巨大惑星が睨みを利かせている間、イゼルローン回廊は膠着状態になる。
フェザーン回廊を利用しない限り大きな戦闘は回避される)
 瓢箪から駒、二度とアムリッツァのごとき残劇は繰り返されないとしたら自分が捕虜になる意味はあるかもしれない。
 ヤンは自分がイゼルローンを落としたことにより起こったアムリッツァ会戦、帝国への大侵攻を思い出した。
 もしイゼルローンさえ攻略しなければ悲劇は起こらなかった。
 片方が大きな軍事力を手に入れると無謀な作戦に出るという最たる例だ。
 和平が今現在困難ならばパワーバランスを維持することで戦争を回避する手段もあるのではないか。
 終戦にいたらなくとも睨み合いの膠着状態が続けば控えめな意味での停戦に?がるのではないか。
 そのためにもヤンウェンリーは帝国の捕虜となる方がいいのかもしれない。
 ヤンという逸材があったからこそ同盟は無謀な戦争を拡大させた。
アムリッツァをそう解釈すれば自分は長い目で見た時同盟にとって不利益な存在となる。
 脳裏に何時もこびりついていた問いかけが表へ出てくる。
 では帝国にとって自分はどんな価値があるのか。
 今はまだ幕僚レベルが交渉相手だからはったりも利く。
 常識で考えて人1人の命とイゼルローン要塞と何10万という敵兵を同じ土俵で比べたりしないだろう。
 だがヤンの名声が彼らの目をくらませた。
 それを利用して最大限の譲歩を引き出したつもりだ。
 ケンプ、ミュラー相手にははったりが効いてもラインハルト フォン ローエングラムには通じない。
ヤンを裁判にかけるか、賊国の敵大将としてさらし者にし民衆の憎悪を増幅させる道具に利用するか、囚われの大将として同盟軍に揺さぶりかける人形にするか。隠密に収容所送りとするか。
 最悪殺されることは無いだろう。
 ローエングラム公が目指す社会に謀殺は相応しくない。
「ああ、年金、一円も受け取っていないのに」
 心残りはそれだけでは無いがとりあえずヤンはぼやくしかなかった。
「ユリアンには帰れなくてすまないと伝えてくれ。イゼルローンの指揮権はキャゼルヌ事務官に委任する。軍上層部から正式の発表が無い限り現在の体制を維持するように、メルカッツ提督の地位は必ず保証するように、もし彼に何かあれば帝国が黙っていないと政府に断言しておいてくれ」
「・・・閣下」
「みんな、悲観しないでくれ。私は捕虜になるが死ににいくわけでは無い。将来和平が実現し戦争が終われば帰ってこられるから」
「和平・・・そんな事がありえるのですか?」
「帝国と同盟の戦争が始まって400年、今が最大のチャンスさ」
「どういう事ですか?」
「帝国はドラスティックな改革を迎えている。ラインハルト フォン ローエングラム候という新たな覇者の下、旧体制は崩壊しつつあるのは目に見えているだろう。ローエングラム体制はゴールデンバウム王朝への反発から生まれた旧貴族制度とは反する国家となるだろう。同盟と手を結ぶ余地は十分に残されている」
「でも、帝国と和平なんて」
「帝国という名を使うから間違えるんだ。新しく生まれたローエングラム国家との共存と考えれば難しいことじゃない」
「・・・そうなれば閣下は戻ってこられるんですね」
「普通の捕虜交換で私が同盟に帰還することは出来ないだろう。次に同盟の土を踏めるのは和平なくしてありえない。みんな、私は絶望していない。必ず帰ってこれると信じているんだ。そしてそれは我々が待ち望んだ平和の幕開けであると確信している。それまでイゼルローンを、同盟を頼む」
 ヤンの言葉は通信を通してイゼルローンへも流された。
 当然同盟も、帝国も受信している。
「綺麗事をぬかしやがって」
 アラルコンは唾を吐き捨てたがモートンを初めとする艦隊の兵士、イゼルローン要塞に立てこもる人間は涙を流した。
同盟政府は回線を通して流れ出てしまった和平案に顔色を無くしていた。
 最後の最後まで気に食わない奴だ。
 大人しく捕虜になっていればいいものを
 これでまた反戦団体が煩くなる。
 戦争を止めたら肥大した軍事産業はどうなるのか考えてもいない屑どもが騒ぎ立てる。
 企業から多大な賄賂で成り立っている現政権としては戦争を終結させる訳にはいかないのに。
 一方帝国軍には困惑が走り抜けた。
「あれがヤンウェンリー?想像とは違うな」
 勇猛果敢な軍人を想像していたのだが画面に現れたのは頼りなげな東洋系の青年
 兵士から見れば華奢にさえ見える肢体に似合わない軍服を着込んでいる。
 もし放送が無ければ偽者だと誰もが疑っただろう。
 青年は穏やかな声で帝国と同盟の和平を提示した。
 これから捕虜になろうという緊張も悲嘆も無く淡々と言い募る。
 今目の前に起こっている自分の不運よりも未来、同盟と帝国の行く末を暗示している。
 魔術師とはよく言ったものだ。
 ミュラーは呻いた。
「今の一言で情勢は急変するかもしれん」
 これが単なる一大将の言葉であれば誰も耳を貸さないであろう。
 しかし同盟最大の智将、英雄であるヤンウェンリーの発した発言は重みが違う。
「吉と出るか凶と出るか」
 同じく通信を傍受したケンプは困惑していた。
 本当に自分らの判断は正しかったか。
 イゼルローン再奪取を捨ててさえ捕虜にしたヤンウェンリーという男
 彼は帝国に何をもたらすのか。
 同盟の英雄を捕虜にしたという勝利の証か。
それとも、言葉に出来ない不安がケンプの胸を駆け巡る
だが彼はその予感にも似た不安を口に出すことは出来なかった。